<メッセージ>

 

千代田ユニオン定期大会開催おめでとうございます。

119日のTV報道では、労働側代表の連合古賀会長と、経団連米倉会長が2011年の春季労働交渉給与総額1%上げ要求をめぐり話し合いをしていました。

経団連は経済の先行き不透明感が強いことを理由に、難色を示していました。

わずかに経済状況の改善がみられたとしても、それは一部大企業の内部留保にまわされ、私の身近な人をみても神田方面の中小零細企業、商店は、青息吐息の状態です。全く余裕のないところから笑顔やゆとりはうまれません。

そのような中、「地の塩」のような千代田ユニオンの方々の活動が12年を迎えられたことに心から敬意を表します。非正規で働く方々、未組織の方々の為に、地道な活動を続けて下さったことを感謝し、今後も困難な状況に置かれた中小零細企業で働く仲間へのご支援をお願いし、千代田ユニオンの皆さまにエールを送りたいと思います。

  2011.1.22

千代田区議会議員

寺 沢 文 子

 


 

働くものの「痛み」と出会う運動−「千代田ユニオン」の8年間をふり返って〈毛利孝雄〉

 

1.はじめに

 

千代田ユニオンの結成は、1998年5月のこと。総評が解散し地区労も実質的に解体的な状況が進むなかで、中小零細や未組織職場に働く仲間たちを中心に、ささやかに交流を重ねてきたことが背景となっている。

 

この8年間、一定の経験を積んできたとはいえ、現在も組合員は連帯組合員を含めて20名余という組織の現状は、活動を広げる上で残念ながら大きな制約となっている。それでも、これから地域ユニオンを立ち上げようと準備中の地区の皆さんには、小さくてもこの程度のことはやれる≠ニいう初期の到達目標にはなるのではないか、そんな思いを含めて報告を書き進めることにしたい。

 

2.地域ユニオン立ち上げへのいくつかの条件−労働相談・事務所・そして「人」

 

千代田ユニオン結成の頃をふり返って考えると、結成の直接の契機となったのは、2つの労働相談に具体的に関わったことである。

 

1つは、NTTの仲間の配転問題をめぐる取り組みで、話は全く予期せぬ方向に進んで、NTT本社と団体交渉を持つことにもなったのである。でき得たことは、一現場労働者が本社・支社の人事労働部を相手に、現場の実態と要求とを自分の言葉で直訴しえたというにすぎないが、これらの課題は現在は「N関労」の仲間たちへと引き継がれている。もう1つは、一年契約の嘱託勤務の仲間の雇い止め問題をめぐるもので、この方は会社側が顧問弁護士を仲介するのみで、全く交渉に応じないため「都労委」に「あっせん」を申請し和解となった。この2つの事案に関わったことは、ユニオンとして活動を進める上で、ささやかな自信につながっていった。

 

よく「地域ユニオン立ち上げのノウハウ」について聞かれることがあるが、何よりもできるだけ多くの労働相談に具体的に関わること、それが大切なことと思っている。ユニオンを準備している段階では、労働法の学習会を持ったり、先行するユニオンの仲間や都の労政事務所(現在の東京都労働相談情報センター)の相談員の方からもレクチャーを受けたりした。もちろんこれらのどれもが大切なことではあるが、労働相談の具体的実践にまさるノウハウはなかった、と思っている。

 

事務所問題も避けては通れない。相談があれば緊急でも集まれる場所は無条件に必要だし、ユニオンの社会的信用に関わる問題でもある。しかし都市部では、財政力のない少人数の団体が独自の事務所を持つことなど不可能に近い。私たちは、この課題を友誼団体の共同事務所に加わることで何とか解決することができている。

 

労働相談は時間を待ってはくれない。特に解雇に関わる相談では、その日の会社への対応をどうするかが問われる。当日か翌日には相談者に会って話を聞く体制が必要になる。この点で、昼間の時間帯に時間のとれる活動家の配置も不可欠といわなければならない。千代田ユニオンが専従者のいないなかで、不十分でも労働相談に即応体制が取れるようになったのは、四年程前になるが、連帯組合員の仲間が定年退職を機に昼間の時間帯の対応をボランティアで引き受ける決意をしてくれたことが、決定的ともいえる要因になっている。

 

地域ユニオン運動への関わりについて様々に議論を深めることは大切なことだが、運動は「人」がつくるものである。要は「一人」の地域ユニオン活動家を育てられるかどうか、自らの生き方として地域ユニオン運動を決意する「一人」の仲間を生み出すことができるかどうか、それがスタートなのだと思う。

 

3.働くものの「痛み」と出会う運動−労働相談の現場から

 

私自身も、従業員5名の小さな印刷会社に勤務しているが、労働運動の「ろ」の字もない現実、「こんな会社やめてやる」と辞表をたたきつけるのが労働者としてなしうる唯一の権利行使であるかのような現実が、中小・零細職場に働く圧倒的多数派の未組織労働者が置かれた現実なのである。加えて「構造改革」の名のもとに急速に進んだ労働分野の「規制緩和」は、とりわけ非正規雇用の増大としてすでに労働組合の存在する職場の中にも、多くの未組織労働者を生み出し続けている。

 

「地域ユニオン運動とは何か」と問われたら、私は何よりも「働くものの痛みと出会う運動だ」と答えるようにしている。その中心は労働相談活動になるが、千代田ユニオンの捕捉しえている相談は平均すると月1件程度、僅かな「痛み」の「点」を拾っているにすぎない。

 

その中から最近の相談内容を拾ってみるとー

*[ビル清掃]職場慣行に近かった定年退職後の継続雇用(嘱託)を一方的に打ち切られた。

*[製版業・既退職者]未払い賃金が支払われない。

*[製版業・正社員]事業縮小を理由に一方的解雇。退職条件も提示なしに口頭通告された。

*[備品貸出業・正社員]暴力行為や私用電話を理由に事情聴取や弁明の機会もなく解雇された。

*[事務・正社員]僅かな手当のみで月4080時間の残業を強いられている。

*[ホテル業・日々雇用]超過勤務の支払い請求を機に、それまで月平均15日以上はあった勤務がほとんどゼロに。

*[外食産業・ガーナ人]正社員を約束されていたが、予告手当もなく一方的に解雇。

*[弁護士事務所・事務]法律事務に適さないからと即日解雇。以前からパワーハラスメントによるいやがらせ。

 

以上の相談内容からもわかるように、地域ユニオンには業種・雇用形態を問わず様々な相談が持ち込まれる。すでに組織と運動があることを前提する既存の労働組合の中で、その強化のために努力することとは、異なる質の努力が地域ユニオンの場合は求められる。

 

相談者の実情をていねいに聞き取り、争点にかかわる法的関係を調べ整理し、要求内容を確認する。この過程は、今でも相談毎に四苦八苦している。私たち自身で調べることが基本ではあるが、わからないことのある時は、迷わず労働相談情報センター(旧労政事務所)や都労委などに相談に出かける。無料法律相談を活用して協力弁護士の方からの助言も受けるようにしている。広く調べれば、判例や他労組の到達した解決水準などおおまかな論点は把握することが可能だ。

 

その結果、団体交渉を申し入れても、特に零細企業の場合は労務担当などはおらず、対話自体が成立しないことも多い。いきなり代理人(多くは弁護士)との交渉になることもある。交渉のテーブルに着くまでが一番大変だ、と言っていいかもしれない。

 

地域ユニオン運動が労働運動全体の帰趨を決するような構造にないことは理解しているつもりだが、組合がないことが常態の中小零細職場や、企業規模を問わず非正規雇用が急速に拡大している情勢を考えると、意識的な活動家はもとより組織労働者自身が、こうした初期からの組織化の能力を鍛え直すことは無条件に必要なことだと思っている。

 

個々の労働相談は、いずれかの到達点で「解決」を計らなければならない。解決の後も当該の方たちが組合員として残ってくれるかどうかは、ユニオンとして試金石ともいえる。そして、相談者の中からユニオン活動を担う組合員を育てることができたら、これ程うれしいことはない。

 

相談者も私たちも、日々強まる競争原理至上主義の職場と社会に生きていることに変わりはない。何よりも働くものの痛み≠共有し一人ひとりの人生に寄り添う努力の中から、勝ち負けの格差社会に抗する価値や希望を体現できる組織をめざしたいと思う。

 

4.地域ユニオンと地域労働運動

 

千代田ユニオンの現状からすれば、残念ながらここまで述べた程度が、なし得る力量の範囲ということになるだろう。「痛み」の「点」を大規模争議や社会問題化していくためには、「点」を「線」に、さらに「面」へとつなげていく運動の量と質とが必要になる。

 

千代田ユニオンの現状からは理念や問題意識に近いような話になるが、今日の情勢の下で地域ユニオン運動を重視する意味を考えてみたい。この間、個々の闘いをつなぎ、市民運動を含めて心ある人々との交流を組織する役割は、全国闘争としての国鉄闘争に依拠する部分が大きかった。しかし国鉄闘争「後」ということはかなり深刻に考えなければならないし、地区労が解体的な状況の中で、地域労働運動への問題意識を日常のものにするためには、やはり意識した活動家が所属する地域での地域ユニオンの立ち上げや運動に積極的にかかわろう、ということになるのではないか。

 

私たちの目標とする兵庫の仲間たちは、地域ユニオンとして労働相談に取り組むことの意義について、次のように述べている。「多くの労働相談にかかわることで地域の権利情勢を具体的につかむ、そして一つひとつの案件の解決に取り組むことで、地域に一定の権利水準を社会的に実現していくことである。」

 

たとえば地域全労協として年に何回かの「労働相談」に取り組むことができれば、地域で働く労働者の実態について共通の認識を育む契機にもなるはずだ。自治体とタイアップして、市民相談の中に労働相談を組み込むことや、もっといえば大企業や政府から収奪を受け続けている中小・零細事業者らの、いわゆる「まちおこし」や地域再生の運動などへの協力も考えられていいと思う。

 

5.生き方としての「地域ユニオン運動」

 

千代田ユニオンにとって、定年退職した連帯組合員の参加が大きな支えになったことはすでに述べた。自分自身の人生と運動をふり返り、次の進路を定める機会は、幾度もあるわけではない。私自身でいえば、今の会社への転職の時期が、それに当たっている。「人は生きてきた軌跡というものを最後に思想化≠キるのでなければ、生きてきた意味がないのではないか」(岩波書店『世界』1995年1月号「特別対談・大江健三郎×安江良介」)との大江健三郎さんの言葉は、自分を後押ししてくれたと思っている。

 

巷の団塊世代論を待つまでもなく、戦後労働運動を担ってきた多くの活動家が現役を退く時代を迎えている。次の人生に向けて、「生きてきた軌跡の思想化=vとして「地域ユニオン運動」を生き方として選択する活動家層が、全国に湧き出ることを期待してやまな

い。

200611月記)

 

 

 

沖縄平和行進・普天間基地包囲ヒューマンチェーンに参加して

 

中部全労協・千代田ユニオン   毛利 孝雄

 

(1)

去る5月14日〜17日、沖縄平和行進と普天間基地包囲ヒューマンチェーンに参加した。初めて沖縄を訪ねたのは、もう10年ほど前のこと、千代田区が毎夏、沖縄・広島・長崎に派遣している平和使節団に応募してのことだった。沖縄戦、日米安保と米軍基地、これまで解ったふうにしてやり過ごしてきた私は、初めての沖縄に心底打ちのめされていた。以来、機会ある度に沖縄を訪ね、沖縄問題を引き受ける努力は続けてきたつもりである。

 

私のわずかな沖縄体験からしても、普天間問題をめぐるこの数ヶ月の沖縄は、沖縄自らが意識して沖縄戦後史の転換点に立とうとしている、そう強く実感している。これまで日米政府によって翻弄され続けてきた過去に対し、“沖縄の未来は自らの意思で決定する”と明確に主張し、米軍基地の集中する現実を「沖縄差別」と表現もしたのだ。4月25日、9万人が参加して開かれた県民大会はその象徴だった。沖縄の9万人は、東京でいえば100万人に近い数字である。

 

この県民大会を前後しての普天間問題をめぐる鳩山前政権の対応ぶりは周知の通り。一方で私は、鳩山批判や政局に終始する本土マスコミの論調や世論の動向には強い違和感を持ってきた。鳩山氏は、首相として戦後初めて沖縄米軍基地の国外・県外への移設を考え努力した、このことは正しく評価されなければならない。ただ、米政府と正面から向き合い交渉する決意も準備もなかったということだろう。否、そもそも日米安保体制を問うことなく、在沖米軍基地に簡単に手をつけることができると考えたこと自体が、稚拙だったということかも知れない。

 

(2)

昨夏、歴史的な政権交代によって誕生した鳩山民主党政権について、普天間−辺野古問題にふれて私は次のように書いたことがある。

 

《…そもそも普天間基地については、1995年の米兵による少女暴行事件を受けて、沖縄の基地負担軽減措置として「返還合意」されたものである。それがその後の日米安保再定義(新ガイドライン)の中で、「東海岸沖への県内移設(新基地建設)」に変わり、さらに日本の自衛隊との連携強化を含めた米軍再編計画全体の中に「パッケージ」として組み込まれた経緯がある。何故これほどまでにアメリカの意に尽くさなければならないのか。

沖縄大学の新崎盛暉さんは、かねてより「彼ら(自民党)の親米的姿勢の根底には、対米

不信、さらには対米恐怖がある」(『けーし2001年9月)と指摘している。また、元広島市長の平岡敬さんは昨年6月の『朝日新聞』連載記事の中で「広島市長だった97年8月6日、平和宣言で『日本政府に対して“核の傘”に頼らない安全保障体制構築への努力を要求する』と主張した。すると、故・橋本龍太郎首相が声をかけてきた。『できっこない。市長はアメリカの怖さを知らない』と。『何が怖いんですか』と聞いても返事はなかった」(核なき世界へ・被爆国からのメッセージ)と当時を振り返っている。

民主党政権には、まず現行の「辺野古移設合意」を白紙に戻すことを明確にした交渉を求めたい。「アメリカの怖さ」が真実なら、その正体を誰もが見える形で示してほしいと思う。普天間・辺野古問題は、単に一基地の移設という問題にとどまらず、戦後日本の政治と経済を支配してきた日米同盟の評価と、今後の日本がとりわけ東アジア地域の中でどのような国として歩もうとするのか、そのことに深く関わっている。それはひとり民主党政権に限らず、日本という地域に生活する民衆一人ひとりが責任を持つべき課題でもあるはずだ。…》

 

(3)

今もこの気持ちに変わりはない。民主党政権には、この間の普天間をめぐる日米交渉の経緯をあらいざらい明らかにし、軍事力によらない東アジア地域の平和創造の道すじこそ熱く語ってほしいと願ってもいる。しかし、残念ながらすでに菅政権は、鳩山前政権による日米合意を優先し、普天間の辺野古移設を表明している。かつて自民党政権が行ってきた密約と振興策による基地押しつけに換えて、誠心誠意を尽くして沖縄を説得し基地受け入れを強要していく、というのだ。

 

付言されている「沖縄の負担軽減」も本気で実現するというのであれば、多少揶揄的な物言いではあるが、まずは手始めに一体運用が必要とされる海兵隊の全体を一括で県外に移設する、一県に偏った移設が不公平というなら2年ごとぐらいに各県を持ち回りにしてもいい、そのためにどれほどの費用が必要かは考えも及ばないが、「米軍基地維持税」でも新設して、それこそ「誠心誠意を尽くして」本土の国民を説得すべきではないか。それは、主義主張を別にして、日本の民主主義社会としてのありようの問題である。

 

さらにいえば「抑止力」論。現在も世界では「抑止力」の名の下に軍拡競争が進められている。あらためて日本もその仲間入りを宣言しようとでもいうのだろうか。沖縄では、この「抑止力」の実体である米軍や米兵による犯罪や事件・事故、訓練に起因する原野火災や軍用機の燃料漏れによる環境汚染、基地周辺の騒音被害など、守られるべき生命やかけがえのない環境が奪われ傷つけられ続けている。それが日常の現実なのである。「抑止力」のためには、これら沖縄の日常は耐えるべき現実なのだろうか。

 

こんな不毛な努力や忍耐を重ねるよりは、「日米共同声明」を白紙に戻し、民意を鼓舞し粘り強く米政府と交渉することの方が、よほど苦労のしがいがあろうというものだ。

 

戦争行為こそは生命と環境の最大の破壊者である。私たちは沖縄戦、広島・長崎の被爆体験をはじめとして、アジア太平洋戦争の惨禍を通してこのことを体得したのではなかったか。戦争と戦争につながるあらゆる策動こそ、世界から真っ先に「仕分け」しなければならない。日本国憲法とりわけ前文と9条は、私たちにそのことのために積極的に行動することを求めているのだ。

 

4月25日、読谷村運動公園を埋め尽くした県民の意思に対して、千代田区平和使節団として沖縄に関わりを持ってきた私たちは、どのようにして応えうるのだろうか。復帰38年を迎えた5月15日、宜野湾市で開催された「平和とくらしを守る県民大会」では、グアム・フィリピン・韓国から米軍基地の撤去や米兵犯罪と向き合ってきた市民運動団体がアピールに立ち、翌日はともに“人間の鎖”で普天間基地を包囲した。沖縄の窓はすでにアジアに向けて開かれている。問われているのは私たちである。

 

<追記>

最後に、今回の訪沖で一番印象深かったことについてひとこと。

 

宜野湾に住む旧知のIさんには、最終日のわずかの自由時間に普天間基地を見下ろす嘉数高台公園や豊見城の旧海軍司令部壕を案内してもらった。その合間に彼の語ってくれた言葉から。


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